自主公開プログラム

2015年6月第二週

第22回:自力本願で他力を引き寄せ幸福な人生を送ろう

  

世の中には、自分がミスをすると他人のせいにしたり、忙しいからミスしたとか、コピー機や設備のせいにしたり、お客様のせいにしたりする言い訳を得意とする方々がいます。自分のことを棚にあげて、人のせいにしているだけでは、心を高めることは出来ません。心を高めることが出来なければ、幸福も社会貢献も絵に描いた餅となります。
今回は、「運命と宿命」について考えて見ましょう。稲盛は、「善きことを思えばよきことが起こり、悪しきことを思えば悪しきことが起るゆえ、善きことを思い経営に当たることの大切さを説きます。その原点は、安岡正篤先生の「運命と立命」の「人間にはそれぞれ運命がある。しかし、それは宿命ではない。善きことを行うことによって、運命は変えることができる」という信念に立脚しています。今回は、安岡正篤先生の著書「運命と立命」の中にある『陰隙録:いんしつろく』について稲盛がお話ししたことを紹介します。
陰隙録の著者は袁了凡:えん りょうぼんという明時代の大儒で、自らの体験を子供に書き残した記録です。袁少年は、幼いときに父を亡くし、母の手一つで育てられますが、非常に才能に恵まれた子供でした。母は、この子が成功して立身出世するためには、医者になるのが最も手っ取り早いだろうと考えます。当時、知識階級の者がいちばん早く世渡りの道をたてる手段は医者になることだったからです。袁に財力がなかったこともあって、少年は母を助けようと医者になるための勉強をします。そんなあるとき、気品のある孔某という老人に出会います。その老人は、哀少年に向かって、「何の勉強をしているのか」と尋ねます。少年が医者になるために勉強していると答えると、老人は袁少年をつくづくと見ながら、「おまえは進士(高官、官僚)として立派に成功する人相を持っているから、田舎で医者になるのはもったいない」と言います。当時、進士(日本の上級国家公務員)の試験に合格することは、知識階級の大きな目標でしたが、試験が非常に難しく、しかも予備試験から本試験まで何度も難関を越えなければ、称号をとることはできませんでした。 そこで、少年は、はじめからあきらめていましたが、老人は、少年が試験を受けたときに予備試験や本試験でそれぞれ何番で及第し、進士になって出世し、何年何月に死ぬこと、子は持たないことなどを予言します。それを聞いた少年はとても感激し、老人を家に連れて帰って大事にもてなしたのです。以来、言われた通りに医者になるための勉強をやめ、役人になるための勉強に専念したところ、すべて老人が言った通りになり、予備試験から本試験まで次々と及第していきます。予言は、見事に的中し続けたのです。
成長した袁少年は、「人間は欲望を持って思い通りに生きようとしてもどうにもならない」

と考えるようになります。運命は決まっているのだから、その運命に忠実に生き、自分が与えられた役割をまっとうするのが最もいいことではないか、くだらぬことに煩悩したり、野心を持ったりすることは愚かであり、神様がちゃんと進むべき道を予定してくれているのだから、下手にもがいてくだらないことを考えても、何もならないのではないか。



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