2015年5月第四週
第20回:先達の英知から学び幸せな人生を送ろう
論語に「礼に非(あら)ざれば、視ること勿(なか)れ。礼に非(あら)ざれば、聞くこと勿れ。礼に非(あら)ざれば、いうこと勿れ。礼に非(あら)ざれば、動くこと勿れ。」
とあります。
論語の文章は、古めかしい言葉で書かれていますが、現代でも通じるすばらしい教えの多くは、論語の文章からきています。
日光に観光に行ったことのある人は、必ずといっていいほど、徳川三代目の将軍、家光が建立した日光東照宮を訪れ、そこで三匹のサルの物語について実際に見聞きし、目に触れるとおもいます。
日光東照宮の「見ザル、聞かザル、言わザル」の三匹のサルの教訓は、おそらく論語の上記の言葉からきていると推察しますが、サルと掛け合わせて語呂合わせしているところは、人間(作者)の持つ特有の知恵と感心せざるを得ません。
人間は、周りの環境に影響を受けやすいものです。特に、人間性・学問・知識に乏しく、判断基準が備わっていなく考えが未熟なときは、外部のゆがんだ情報や刺激はできるだけさけるべきであると教えているわけです。非社会的なこと、非道なことなど、できるだけ見ない、聞かない、むやみに発言しなさいと教えているのです。昔から、子供のときは、特に刺激的なものなどには触れさせないようにすることが大切だと教えています。「礼にあ
らざれば」(礼儀作法のことだけでなく、非道(理屈・道理に合わないこと)ととらえれば、してはいけないと教えています。
話しは、変わって、私の出身である宮古高校の校訓は、「知・徳・体」です。即ち、「知性の啓培」、「徳性の涵養」、「体力の練磨」ですが、私は、母校(南秀同窓会)主催の宮古高校卆後50周年の祝賀会に参加してあらためてこの校訓のすばらしさに感動しました。いずれも校訓の体得には長い年月と限りない継続を必要とします。「体力の練磨」の練磨について考えてみます。時間を掛けてこねて、まわして、徐々に仕上げていく様を思い浮かべてください。
論語には、「切(せっ)するが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し」とあります。切磋琢磨の語源でもありますが、250年前の知恵は、現代でも「切磋琢磨」として生き残っています。「切磋」とは、自分が目指すことに向けて思いを描き、そのための基礎を作ります。
琢磨とは、表面を滑らかに磨き上げることで美しくしていくことです。競い合いながら、ひたすらに上を目指して、自分を磨いていくことが切磋琢磨です。私たちの成長には限界がなく、磨けば磨くほど成長し続けます。このような言葉の意味を捉えながら解釈すると練磨の言葉の持つ意味、意図している言葉の本当の意味がよく理解できてきます。また、鍛は、鉄を何度もたたきながら強くしていくことからきていますが、剣豪で有名な宮本武蔵は、千回の繰り返しを「鍛」、万回の繰り返しを「錬」としています。
其れが言葉の持つ魔力であり、言霊でもあるとおもいます。