自主公開プログラム

2015年6月第四週

第24回:先週からの続き

  

そんな逆境のときに、袁青年の生き方とは反対に、「これは運命だから」と努力することをやめたり、失望したりして自分を投げ出してしまえば成長はそこで止まってしまうでしょう。「何となく生きていればいいや」とやり過ごしていれば、それこそ朦朧(もうろう)とした人生になってしまいます。禅師は、袁青年の生き方を否定したのではなく、より大きな人間に成長することを促したのです。禅師は、人間は生きている限り想像できないほどの生き抜く底力を持っていることを教えたのです。
『陰隙録』(いんしつろく著者は袁了凡(えん りょうぼん)の物語はいかがでしたでしょうか?仏教、キリスト教、イスラム教いずれも予言者の世界でつくられています。予言者の言うことを信じないで自力本願で自分の道を開きなさいと教えていること自体は、一見宗教的な考え方を否定しているように思えますが皆様はどのように考えますか?
ところで、自力本願に対して他力本願という言葉があります。浄土真宗の開祖である親鸞聖人によって、広められた仏教語です。他力本願は、阿弥陀仏が「善悪を問わず生命のある全ての存在を極楽浄土に往生させる自分の修業の力ではなく阿弥陀仏の本願の力によって成仏させることである」と説明しています。親鸞聖人の有名な言葉、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人は、自らの力で、善行を積み、阿弥陀仏に感謝することなく生きていけるので、阿弥陀仏に対する信仰心が薄いにもかかわらず往生できるのだから、悪行重ねた人は、自分ではどうしようもなく阿弥陀仏にすがっているわけだから、こういう人が往生できないわけがない。阿弥陀はそのような人を見捨てるわけが無い。善人は阿弥陀にすがらなくて往生できるとなれば、ましてや阿弥陀にすがる悪人が往生できないわけがない)といっているわけです。念仏を唱えれば、極楽往生できるから唱えなさいといっているわけです。キリスト教、イスラム教も救世主に頼る他力本願の世界に見えます。隔離されたところで、身を神にささげ、祈りの生活をすれば極楽往生できる、即ち天国にいけると信じてその道一筋の方もいます。
それはさておき、私たちは、人間社会で生きていくには、他力本願一辺倒でなく、自力本願を基本としていきなければなりません。生きている以上は、自力本願の精神でなければならないと私は考えます。そのような生き方が結局他力を引き寄せるのではないでしょか。
「人事を尽くして天命を待つ」という諺があります。国語辞書の広辞苑では、「人間として出来るかぎりのことをして、その上は天命に任せて心を労しない」と説明しています。
人生の末期、終の棲家の生活ならいざ知らず、私たちは、自分で出来る間は、現世に生きている間は、私たちは、自力本願で物事の解決を図るような生き方を選びたいと思います。その生き抜く力を発揮するには、志を高く持ち、望みを持ち続けることではないでしょうか。「努力なくして成長なし、人生は一生勉強」です。論語にも、「民の義を務め、鬼神を啓して、之を遠ざく、知と謂うべし」とあります。ただ、単に占いに頼ったり、パワースポット・神社・お寺巡りをするのではなく、「人事を尽くして天命を待つ」というように、やるべき事を先に行うことが大切です。



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