2015年10月第四週
第40回:心に羅針盤を持とう。
今週は、心に羅針盤(=判断基準)を持つことの意味について考えて見ます。
稲盛は、「人間として何が正しいかを判断基準とすること」と塾生に教えています。この考え方の原点は仏教の教えからきております。
稲盛は、中学生のころ肺結核で療養中に布団のそばに置いて読んだ「生命の実相」がその後の彼の生き方にかなり大きな影響を与え、人生の羅針盤になったといいます。
稲盛は、決断を迫られたとき、迷ったとき、私的な利益でなく、人間として正しいと思う方を選択しなさいと私たち中小企業の経営者に教えています。
私は、創業して軌道に乗り、自社ビルを持ったころ(今から15,6年前)に初めてその教えに触れました。
そのときは、正しいかどうかがわからないから迷うのであって、正しいと思う方を選択しなさいという教えが何かちんぷんかんぷんで禅問答のような感じを抱きました。
私は、稲盛経営の「利他の心」、「動機善なりや私心なかりしか」、「大善は、非情に似たり」を理解し実践していくには、先ず心を高める努力が必要なことを実感しています。
結局のところ、経営とは、人生とは、自分の心を高めることに尽きるといってよいでしょう。
仏教では、人間の持つ欲とそれに基づく迷いが、人生、ビジネスの方向性を誤らせる原因だと説きます。
現世では、自分だけは、損したくないという私欲で自分が有利に立ちまわれるようにするために他人の足を引っ張ったりすることがよく起こります。
いろいろな組織、政府、行政などの不祥事もたいていの場合、その人の強欲が原因で起こっています。
仏教の教えである「人間として何が正しいかを」判断基準とすれば人生で大きな判断ミスや間違いは起こさずにすむでしょう。
法華経に「自灯明・法灯明」という言葉があります。
他力本願ではなく、自分の人生をどう生きるかは、最終的には自分で決断しなければなりません(自灯明)が、世の中には、好事魔多しで、判断、決断に迷いが生じます。
そのときの判断基準が、「法灯明」即ち、仏教の教えを判断基準にしなさいということになります。
しかし、冒頭でも申したように、私たちのような凡人には、「何が人間として正しいか」を見極めることはそう簡単なことではありません。
したがって、どんなときでも正しい判断ができるように人間性を磨いていかないと正しいと思ったことが、逆に悪いことになるかもしれないのです。
逆説的になりますが人間として正しいことを判断基準にするということは、人間性を磨き、成長していくことにほかならないと思います。
家族、友達、同僚、日々の人間関係、読書、勉強会などを通して、倫理感や道徳感、価値感が磨かれていきます。
そうしたなかで、「何が正しいか」を育んでいくのではないでしょうか。
ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けないように、人も人でしか磨かれないのではないでしょうか。
そうなると、「どんな人と付き合うか」が重要となります。
「人は鏡」と言います。自分を磨き、よい人との縁を大切にして、「人間として何が正しいか」という判断基準をしっかりと確立していきたいものです。